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日本の『安心』はなぜ、消えたのか

山岸俊男「日本の『安心』はなぜ、消えたのか」を読む。山岸俊男は、日本人の社会心理学研究者としては最も著名なのに、書籍を読むのは初めて。有斐閣の社会心理学という教科書でもかなりの頁数を割いて紹介されていた。

何がすごいって日本人は実は個人主義者だという事を『実証した』というのがすごい。日本人が欧米人と比較して集団主義で、謙遜を美徳とする人間だという言説は、日常生活の常識として流通している。が、実はこれって大嘘なのですよ!いやあ、俺もびっくりです。

で、綿密な実験を通して集団主義という神話が生まれた理由から、日本人もアメリカ人も、周りの人間が自分の行動をどう評価するのかという他人の目を除外すると、行動に差は無いって事まで実証してくれてます。おもしろーい。このへんは宮台真司の博士論文「予期の権力理論」(だっけ?)ともつながりそうだ。

このへんの実証研究を知って嬉しいのが、日本のいじめ問題を解決するのは結構なんとかなるかも知れないって光明が差してきたって事か。「帰属の基本的エラー」という人間に備わっているバイアスが原因なのね。このへんはブラックスワンの議論、帰納法の欠陥とも共通しそうだ。日本人は周りが集団主義だと思いこんでいる個人主義者の集団なのだ。そして、お互いに集団主義だと思いこんでいる事が、集団主義が適応的な行動となる社会環境を形成している。

乱暴に言い換えれば、遠慮せずに腹を割って本音を話してみれば、案外物わかりが良い人が多いのが事実で怖がる必要は無い、みたいな。卑近すぎる例ですか。でも、周りの人間に過度に幻想を抱く事がいじめの原因なんだという指摘には目から鱗です。

社会心理学から食品偽装の問題などを分析するとこんな論点を引き出せるのか。おもしろい。

この本の内容を使って、「なぜ日本人女性はブランド品が好きなのか」を説明できそうだ。安っぽい新書タイトルみたいで悪趣味だぜ。

前半の実験から日本人は集団主義だという予想に基づいて行動する疑心暗鬼によって集団主義という神話を実体化している、という結論が導き出される。反対にアメリカ人のリーダーシップのある、独立した個人であるという予想に基づいて行動する事がアメリカ人の個人主義という神話の実体化装置になっている。

で、そこから、「臨界質量」の話題になる。いじめの問題を解決するには、次の視点での認識が重要だという事。まずクラスの生徒を観察すると、正義感の強いタイプと不良タイプを両極端において、中央に事なかれ主義の日和見集団の分布になっている。(正確には不良が必ずいじめをする訳じゃないので、いじめをしやすいかどうかって言った方が良いか)これをいじめに対する態度としてグラフ化すれば、日和見集団は0で、正義感の強いタイプはいじめに対してマイナスの態度、不良タイプはプラスタイプみたいに数値化できる。この分布は正規分布に従うと仮定するのが楽で、実際の実証研究でも、クラスメンバー内では日和見主義者が最も多数派である。今までのいじめ研究で見逃されていたのが、なんとこの日和見集団がクラスでいじめ発生する最大の要因だという事。自分を普通の人間だと無邪気に信じているタイプの人間が一番悪質、みたいなどこにでもある教訓を引き出せそうだけど、それは置いておいて、この日和見集団がいじめに対して傍観者態度を取らず、反対の姿勢を取っているクラスであればイジメは発生しなくなるのだ。

以前、社会心理学の書評を書いていて、ある集団の中で変化が一般化するには集団の四割が行動変化すれば、全体の9割近くにまで普及するという話を書いたのを覚えているだろうか。これを物理学の原子分裂の臨界質量からもじった、社会集団の限界質量という言葉があるのだ。

これをいじめの問題に具体化して説明すると、異常に正義感の強いタイプも、異常に反抗的な不良タイプも実数としてはそう多くはない。むしろ、0から1か2くらい正義感のある人やら不良なタイプやらの方が多い。そして、人々は周りの人間の行動を真似する受動戦略を取るので、自分と同じくらいの人々が一斉に行動を変化させると、自分も行動を変化させて…という具合に変化が一定の均衡点を突破すると全体に波及するようになる。これが臨界質量の突破という事になる。

ちなみにこの限界質量を利用すれば、世の中に下らない流行がいつまで経っても根絶せずに定期的に生まれるのかも簡単に説明できる。さらに、ネットワーク理論的に、ベキ乗型の分布曲線に従う対象が生まれる理由もまた、説明できる。

この根底には、人間は合理的経済人などではなく、限定合理性を持った存在であり、自分が一番こだわっている物事くらいしか客観的な判断が出来ないというのがある。もっと正確に言えば、自分が一番得意な分野ですら、その客観性は不完全であり、いわんや何の興味も無い分野については人の真似をするというリスク最少のヒューリスティック戦略を取らざるを得ないという「受動戦略」が通底している。その受動戦略が、文化的に定着すれば、「伝統」と呼ばれるし、少し冷静になって考えれば不合理なものであれば「浅薄な流行」と呼ばれる。どちらも情報不完全性に充ち満ちた流動的な世界を生き抜くために人間が進化の歴史の中で獲得した性質が表出したという意味では全く同じ事象なのだ。もちろん、伝統には時間の淘汰を生き延びたという強い合理性が潜んでいるのだが。

また、安心社会型から信頼社会型への移行の問題。

用語の説明。

安心社会型=価値判断のアウトソース社会。昔の村八分や相互扶助が行われていた村落共同体が具体例だ。社会状況が価値判断を代行してくれる。当たり前だが、昭和の頃の人間の心が綺麗だったから村落共同体の役割が明確にある、流動性の低い社会が美しく思い出されるのではなく、「それ以外に選択肢がない」ので心をそのどうしようもない現実に適応させていたので、わがままも自分探しも生まれる余地が無かったのだ。絶望的な貧困は多くの場合、知性の鈍麻を誘発して、良くも悪くも考えなくなる。ジャズ音楽に潜んでいる哀愁ってのを思い出してくれ。

信頼社会型=価値判断を自分自身で負担する社会。近代的市民社会での都市生活者などの生活。法的な手続きに従って、相手が何者なのか情報が無い状況でもやっていけるように整備された社会だ。が、保守的な馬鹿や、革新的な馬鹿などの政治家はこういった社会を人間性の疎外する機械管理社会なんて嫌味を言ったりする。

日本人の急速な近代化の負の面についてヤクザ史なども書いたけど、日本人が集団主義なのも、結局、安心社会型の社会イメージを個々人が持っているせいである。これは目的な一定の状態の追いつき国家型、つまりは大陸法的な発想の状態では、むしろ安心社会型の方が経済成長には適応的なのだ。

けど、社会的な変化が予測出来ず、流動的な状況では、英米法的な法体系による試行錯誤型の社会設計の方が有利になるとこれまた以前書いた。そして、この流動性の高い状況で、適応的なのが信頼社会型の社会設計なのだ。

では、なぜ日本人女性がブランド好きだという事が、欧米人に嘲笑されているのかをこのへんの議論を基礎にして論証してみよう。

まず、急速な近代化によって、ごく一部分しか近代的自我を内面化した人間が出てきてず、キモゴミみたいに村落共同体型のフリーライダーが得をする社会構造が温存された。元々女性は、男性よりも簡単に妥当性を検証出来るようなコミュニケーション縮減をしていない状況に適応して生きているので、なおさら安心社会型の受動戦略を取る人間が多い。反面、欧米の社会は信頼社会型の社会設計を基礎にして内面化が進むので、近代的自我が付け焼き刃でなく内面化される。

もうひとつは、評判の機会費用だ。流動的な状況において、確実性を担保するのが評判だ。特に服飾の技術や裁縫技術、デザイン原理などの諸々の知識を知悉しなければ、本来、オートクチュールなどを手がけるブランド製の服を評価する事が出来ない。が、近代的自我モデルを内面化していない、主観的確率空間を生きている日本人女性の場合、そんな歴史や技術への尊敬なんて知った事ではない恥知らずが非常に多いので、受動戦略を選択して、周りの人間が評価している、雑誌がお勧めしているという、内面化した価値観ではなく、真似をする人が多い事を軸としてブランドの価値を評価して品質の担保を行う。

これが欧米人の近代的自我モデル=信頼社会型の世界観を前提にしている価値観から見れば、幼稚このうえなく映るという訳だ。だが、社会が一定の方向に向かって進む事が確実に予見されるよいう高度成長期の日本みたいな幸福な社会や、未開部族の成長や変化そのものが無い社会では、むしろ近代的自我モデルはコストが高すぎるだけでなんの特もない自我形成の選択肢なので、むしろ意味わかんないけど有名モデルや雑誌で勧められていたから、これは最高品質なのだ、みたいな価値担保の方法の方がその場合は、合理的な訳です。

はあ、これで、信頼型社会が完成していない、日本、韓国、中国人の観光客が海外の特に欧米諸国で笑い者にされる理由が論証できた。二十年ほど前までは日本くらいしか安心型社会のまま金持ちになった国は無かったのも揶揄されるようになった条件だね。

終わり。露悪的な表現が鼻についたらすまん。それにしてもこの本の後半は俺が受動戦略で色々考えていた事とかなり重複して、さらに発展させてくれるものもあって、良かった。

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