chu-ken.info/text/2008

暗黙知の次元

ポランニーの「暗黙知の次元」を読んだ。

ハイエクや野中郁次郎の著作の基盤にもなっている(厳密に定義に従うならば野中さんは曲解しているけど)、認識論というか創造性の仕組みというか、科学的発見とは何かというか、知の限界とは何かというか、…一言で言い表しづらい本だ。

松岡正剛の書評を読んだが、なんだか少しピント外れな感じがする。立脚してる問題意識=暗黙知が違うものだからなのだろうけど。以前、記憶の種類について書いた。非陳述記憶の中の「手続き記憶」と「レミニセンス」の二つが創造性の基盤になっているのではないか、と。これと松岡さんの「方法知」という表現は似たものなのかもしれない。

ただ、幾つかおもしろい収穫もあって、ポストモダニズムを批判するのに以前「地と図の区別」っていう小話を使ったのだが、ポランニーはその小話をさらに拡張してくれたような気がする。

ようするに、地図を見ている時、地に注目するには、図を後景にした基盤として利用しなければ地を観察できない。反対に、図に注目するときは、地を後景にして、前提としてアプリオリに受け入れなければ図を記述する事が出来ない、という事だ。

これはそのまま、絶対主義を前提するからニヒリズムに流れ、ニヒリズムを前提にするから絶対主義に流れる、この二つの一見対立してるかの如き両者はその地と図の区別が出来ていないという一点の前提条件を疑っていないために間違っているという以前の俺のお話と全く同じ。

これを言語化できる知識と言語化困難な知識、もしくは社会的知識と個人的知識、もしくは問題解決のための知識と問題発見のための知識、みたいな問題にまで拡張できる。

科学的手法としてのパラダイムはそのパラダイムに従って科学的な発見が続いている間は安泰であり、疑われる事がない。これは問題解決のための知識とも言える。反対にパラダイムに従っていては矛盾が生じる時に必要とされるのは、問題発見のための知識であり、暗黙知であり、社会的に認知されていない問題意識や個人的直感だったりするのだ。

あと一点。ヴァレラなどのオートポイエーシスとも関係しそうな論点。特定のオブジェクトレベルの存在は、それよりメタレベルのオブジェクトを記述する事が出来ないが、制約条件にはなる。という話は、非常におもしろそうだ。マルクスの下位構造が上位構造を規定するっていう話とも同じなのだけど、人間の意識プログラムの中には自意識が参照出来ない、というか参照出来ないおかげで上手く廻っている部分があるっていう俺の予想を根拠付けられる気がしてきた。無意識っていう言葉の用例を増やせそうだ。

あと、下位オブジェクトが上位オブジェクトを制約しているからこそ、上位オブジェクトがオープンになり、自由になるっていう論点もおもしろい。ビジネスの産業勃興の歴史にも似た構造を見いだせるだろうし、自由の意味とは形式化を徹底的に習熟した先に発生するものだ、っていう話とも同一ネタだよなあ。

まとまらないので曖昧な感想だけでお終い。

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